

地獄銭湯 ~Chilla's Art ノベライズ集2~
著者・東 亮太 原作・監修 Chilla's Art
大人気インディーホラーゲームメーカー、ノベライズ第2弾!
天涯孤独の身のまいなは、かつて世話になった施設からの紹介で、小さな田舎町の銭湯で働くことになった。だがオーナーに宛がわれたアパートはおんぼろで、銭湯に訪れる客も一筋縄ではいかない者ばかり。しかも謎めいた男の子から「このお風呂の家には幽霊がいるから気をつけてね……」と奇妙なことを言われてしまう。確かにこの銭湯はおかしい。誰もいないはずの浴場に響く不気味な声。忽然と消える客。鏡には見知らぬ女の姿が浮かび、湯船の底を何かが這いずる……。次々と起こる不気味な出来事に怯え続けるまいなの身に、さらに想像を絶する悪夢が迫ろうとしていた。果たしてまいなを狙う者の正体とは? やがて銭湯に隠されたおぞましい過去が明らかになった時、まいなは自身に秘められた真実を知ることになる――。田舎の銭湯での因縁を解き明かす表題作『地獄銭湯』ほか、『行方不明』『事故物件』『例外配達』『ヒトカラ』の計五編を収録!


チラズアートノベライズ第2弾発売記念!
特別短編公開
『おかえり』
「ただいま」
玄関のドアを開けてそう呼びかけたけれど、「おかえり」の声は返ってこなかった。
夕方、薄闇に満ちた家の中は、まるで時が流れるのを諦めたかのように、しんと静まり返っている。つい数歩前まで耳障りだったカラスの鳴き声も、ドアを閉めると同時にプツリと途切れてしまった。
私は三和土に視線を落とし、ちゃんとお母さんのローファーが揃っているのを見てから、もう一度「ただいま」と声をかけた。
……やはり返事はない。靴があるなら、出かけてはいないはずなのに。
どんなに待っても静寂に変化がないことを確かめ、私は小さく息を吸い、吐き、通学用のスニーカーを脱いで、ゆっくりと上がり框に足を踏み入れた。
途端に、ひやりとした冷気が靴下に浸み、足の裏に張りついてきた。
まだ初秋だというのに、この家の玄関はやけに肌寒い。常に日が差さず陰っているからか。
不快な冷たさに耐えながら一歩前に踏み出すと、きぃ、と微かに床板が軋んだ。
引っ越してきた時からすでに、古い家だった。
築何年かは分からない。木造の壁は煤けたように黒ずみ、狭い庭は雑草にまみれ、ひび割れたブロック塀には黒い蔦が這いずり回っている。もう相当な年月、住み手が不在だったのだろう。
立地も悪い。転校先の新しい中学からそう離れていないとはいえ、裏道から隙間のような路地を何度も折れ曲がらないと辿り着けないこの家は、まるで臆病な生き物が恐ろしい何かから身を隠すための、隠れ家のようにも思える。
おかげで帰路が複雑で、今日も帰宅するまでに、少し道に迷った。ここに引っ越してきて一週間になるが、私はこの家に、まだ慣れない。
「お母さん、いないの?」
返事のない相手にそう呼びかけながら、すぐ手前の洗面所のドアに手をかける。しかしドアノブを回しても、肝心のドアが何かにつかえたようにガタガタ鳴るばかりで、少しも開こうとしてくれない。
鍵は付いていないはずだから、建てつけの問題だろう。
私は手洗いを諦めて階段を上った。
二階の廊下は、玄関に比べて幾分か明るかった。
廊下の両端に二ヶ所ある窓はどちらもカーテンがついておらず、夕方の薄い日差しを直接取り込み、空気中に漂う埃を淡く光らせている。そばに雑然と積まれた段ボール箱を片づければ、もっと明るくなるだろうか。
私は視線を、放置された自分の荷物に向けた。
引っ越してから、まだそのままになっている。この家に馴染むためにも、早く荷解きをすませなければと思うのだけど、昼間は学校があるし、夜は暗くて作業が捗らないから、なかなか手つかずのままだ。
窓辺に置かれた姿見の前に立つ。中学の制服を着た私が、落ち着かない表情で映っている。
髪とタイを軽く直し、にぃ、と笑顔を作ってみた。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだぁれ?」
思い浮かんだままの台詞を口にした。
もちろん、誰かが答えてくれることなどない。私が再び口を閉ざせば、この家はずっと静かなままだ。
――もう夕方なのに。お母さん、どこへ行ったんだろう。
私は真顔に戻り、それから自分の部屋のドアノブに手をかけた。
ここも、開かなかった。
今朝までは普通に開いたはずだけど。仕方なくドアのそばに通学鞄を放り出す。教科書の重みで床が唸るように軋み、またすぐに音は途絶えた。
振り返れば、薄明かりを帯びた廊下の片側に、今上ってきたばかりの黒い階段がぽっかりと口を開け、さながら奈落のように、暗い階下へと私を誘(いざな)っている。
途端に心細さが募った。
階段を見つめる。暗闇の底に、人の気配はない。
声を出そうとした。何でもいいから、この静けさを破る音が欲しかった。
その時だ。
ぎぃぃぃ……、と突然階下から、ドアの軋む音が鳴り響いた。
「え、お母さん?」
ハッとして、私は階段を足早に下りた。
たんたんたん、と足を踏み鳴らすたびに、踏板がキィキィと不快に鳴く。一階に下りて廊下を見回すと、奥のダイニングに続くドアが開け放たれていた。
私が開けた覚えはない。お母さんがいるのかもしれない。
「ただいま」
そう口にしながら、ダイニングを覗いてみた。
入って右手にキッチン。カウンターを隔ててテーブルが据えられ、左手にはリビングの風景が広がる。テーブルやソファなど家具は多いが、そのほとんどは、この家に以前から残されていたものだ。
庭に通じる掃き出し窓から薄い光が差し込んだリビングスペースは、この時間でも辛うじて明るさを保っている。
ただ、お母さんは、どこにも見当たらなかった。
気のせい――だったのだろうか。
ふと、棚に飾られた写真立てが目に入った。
写真には、お母さんが笑顔で写っている。もう何年も前に撮った写真だ。
「そう言えば最近、お母さん、元気ないな……」
私は独り言ちた。もうずっと、お母さんのこんな笑顔を見ていない気がする。
思えば、今回の引っ越しの時も、そうだった。
「一緒に来なさい」
一週間前。お母さんは何の前触れもなく私にそう言って、大急ぎで荷物をまとめさせた。
強張った顔で、まるで何かに急き立てられるように。……あるいは、何かから逃げ出そうとするかのように。
なぜお母さんがそんなことを言い出したのかは、分からない。私が面食らって理由を聞いても、何も教えてもらえなかった。
だから仕方なく、言われたとおりに身の回りの物を段ボール箱に詰め、慌ただしく前の家を出た。
真夜中のことだった。
誰が運転しているのかもよく分からない、小さなトラックの荷台に揺られ、着いた先がここだった。
私がこの新居に馴染めないのは、そんなことがあったからかもしれない。
この家は、私にとって異物なのだ。
いや、あるいは逆で、私がこの家にとって異物なのかもしれないけど。
リビングの片隅にあるテレビの前に立って、映らない画面を無為に眺めた。
スイッチに触れたところで電源は入らない。そもそもこの家には、電気が通っていない。
いや、この家には――という言い方は正確じゃない。「私の家」だから、電気が通っていないのだと思う。
前の家でも、電気は通っていなかった。だから私は、もう長い間テレビを見ていない。
新しい家に引っ越しても、それは同じだ。真夜中のトラックに運ばれながら、これから変わる生活を思い描いていた。もしかしたら今度は電気が通うかもしれないと、少し期待してもいた。
だけど実際には、何も変わっていない。
電気は通わないし、テレビは点かない。夜になれば家の中は真っ暗で、お母さんはずっと元気がないままだ。
やることもなくリビングを徘徊し、テレビの対面にある襖を開けた。
こちらは畳敷きの小さな和室だ。もちろん、ここにもお母さんはいない。
和室の奥には押し入れがある。念のため、そばに寄って中を覗いてみた。しかし、やはりそこには誰も――。
……にゃぁ。
不意に、猫の声が聞こえた。
「ん? ねこちゃん?」
私は呟き、暗い押し入れの中に目を凝らした。
……何もいない。いるはずがない。
思えば、猫を飼いたいと駄々をこねてお母さんを困らせたのは、もうずっと昔。まだ私が幼かった頃のことだ。
あれは……そう、一つ前の家に引っ越したばかりの時だった。
思えばあの時から、お父さんとは会っていない。おかげでもう、お父さんの顔を思い出すこともなくなった。
お父さんと離れ離れになった理由も覚えていない。いや、さすがに当時の幼すぎる私には、理由など理解できなかったはずだけど。
ただ、お母さんに。
――一緒に来なさい。
そう言われたから、私はお母さんと一緒に引っ越した。
今回の引っ越しも、まったく同じだ。きっと私は今までも、これからも、ずっとお母さんと一緒にいるのだろう。
だから――お母さん、早く帰ってきて。
――どすん。
不意に、家の中で何かが鳴り響いた。
――どすん。――どすん。
まるで、重たいものが突然家のどこかに力任せに叩きつけられたかのような、異様な怪音だった。
耳を澄ませ、それが二階からだと確かめる。私はおずおずと天井を見上げる。
「……お母さん?」
尋ねても、もちろん応える声などない。
上がって確かめるしかない。
私はダイニングを抜け、再び暗い廊下に立った。階段を見上げる。重たい怪音は、すでに聞こえなくなっている。
たん、たん、と踏板を響かせながら、二階に戻った。
さっきよりも、廊下の陰りが濃い。もう日が沈みつつある。
「……ただいま」
誰もいない二階の廊下に向かって、私は呼びかけた。
返事など、当然なかった。
ただ、私の部屋のドアは、開くようになっていた。
やがて日が落ちた。
窓から差し込む光は失せ、今夜も部屋の中が、濁った闇に満たされる。
部屋に置いてある懐中電灯を手に取る。電池の寿命が切れかかっているのか、点した光はあまりにも心もとなかったけど、他に縋るものもなく、私はその光を頼りに廊下に出た。
こんなに暗くなっても、お母さんはまだ帰ってこない。
私はいつまで独りでいればいいのだろう。
……そもそもここは、本当に私の家なのだろうか。
もしかしたら、ここは違うのかもしれない。実は、どこか別に私の帰るべき場所があって、お母さんもそこで待ってくれているのではないか――。
そんな錯覚に陥りながら、私はただお母さんの姿を求めて、二階をさまよう。
同じ二階にある、お母さんの寝室を覗く。誰もいない。
棚に、鍵のかかった小箱がある。暗証番号式の鍵だ。お母さんが時々これを開けて中を覗いているのを、見たことがある。
もっとも、中に何が入っているのかは分からない。聞いても教えてくれなかった。
私は小箱に背を向け、寝室を出ようとした。
その時だ。不意に、おかしなものが目に留まった。
それは、私が手にした懐中電灯の朧げな光に照らされ、寝室の壁にぼぉっと浮かび上がっていた。
「……七?」
思わず口に出して呟いた。壁に浮かんでいるのは、どう見ても漢数字の「七」という文字だ。
いったいこの文字は何だろう。お母さんが書いたのだろうか。
光を当てて、まじまじと見つめる。文字の色は黒い。ペンか何かで壁に直接書いたのか。そう思いながら懐中電灯を逸らすと、「七」の字はすぅっと見えなくなった。
あれ、と思い、光を当て直す。するとまた文字が浮かぶ。
光を下げる。文字は消える。
どうやら、懐中電灯の光に反応して見えるものらしい。なるほど、仕掛けは分かった。仕組みはさっぱり分からないけど。
私はゆっくりとした足取りで寝室を出た。
夜の帳に呑み込まれた廊下に、薄い光の輪を走らせる。続いて向かったのは、お母さんが使っているもう一つの部屋だ。
ドアを開け、光を向ける。床に敷かれた、場違いなまでにカラフルな絨毯も、今は闇の中でくすんで見える。
……どこかで足音が鳴った。ような気がした。
振り返ったけれど、もちろん誰もいない。気を取り直し、もう一度室内に目を向ける。
小さなテーブルの上に、ノートが一冊置かれている。開かれたページには、走り書きのようなメモが残されている。
――ケトル、トイレ、和室、納戸、私の部屋。
これは何かの暗号か。あ、もしかしたら。
……一つ、思い当たった。
すぐさま部屋を移った。二階にある最後の部屋だ。
中を覗く。ガラスのテーブルの上に、ケトルが置きっぱなしになっている。
べつにここでお茶を飲んでいたわけじゃない。そばの床には、水の溜まったバケツが一つ。単に、この部屋が雨漏りしているのだ。
私はそっと、懐中電灯の光をケトルに当ててみた。
ぼぉっ、とテーブルの上に漢数字が浮かび上がった。「四」だ。
やはりそうだ。あのメモは、数字の場所を示しているに違いない。すると残るは、トイレ、和室、納戸……。どれも一階だ。
私は再び下へ降りようと、階段の踏み板に片足を置いた。
眼下に暗い廊下の一角が映る。光の届かない、ざらついたような闇に包まれた階下へ下りようとした、その時。
ふと――人影が、一階の廊下に見えた。
黒い体を揺らすこともなく、玄関から奥に向かって、すぅっと移動していった。
暗いから、誰だかは分からない。ただ、私は自然と口にしていた。
「お母さん? ただいま」
呼びかけながら廊下に降り立つ。薄い光を頼りに周囲を見渡すが、すでに人影はない。
人影の向かった先には、ダイニングに続くドアが見える。私は後を追った。
ドアを開け放つ。もはや差し込む外光のない、だだ広い闇に、やはりお母さんの姿はない。
ただ――なぜだろう。家具が。
……家具が、どういうわけだか、天井に張りついていた。
テーブル。椅子。ラック。電気スタンド……。様々な家具が逆さまになり、天井から下がっている。
まるで、何かが悪意をもって、部屋全体を引っくり返したかにも見える。
「お母さん……?」
不安のあまり呼びかける。応えてくれる声などないというのに。
……ここは本当に私の家なのか。
……本当に、私がいていい場所なのか。
助けを求めて、写真立てのお母さんに縋ろうとしたけど、ついさっきまで飾られていたはずの写真立ては、どこにも見当たらなかった。
お母さん、と叫びながら、私はさっき見た人影を探して、和室に通じる襖を開けた。
こちらは逆さまになっていない。そう言えば、この部屋にも何か数字があるはずだ。
懐中電灯の光を震わせて見回すが、それらしき数字は見えない。だが、あのノートを踏まえれば、必ずこの和室のどこかにあるはずだ。
ふと思いつき、私は押し入れの中を覗いてみた。
壁に数字があった。「九」だ。
いったいこの数字は何なのか……。分からないけど、お母さんのノートにヒントがあったということは、お母さんが私のために残したものかもしれない。
残るは、トイレと納戸。納戸――要するに収納スペース――はダイニングの一角にある。私は和室を出てそちらに向かおうとする。
その時だった。
突如、バサバサバサッ! と、静寂をかき混ぜるかのように、またも異様な音が鳴り渡った。
私はびくりと身を強張らせ、その場に固まる。今のは……何だ。
恐る恐る廊下に出て周囲を見回すと、ちょうど階段の下に、白い紙が何枚も散らばっているのが見えた。
そばには、私の通学鞄が落ちている。どうやらこの鞄が階段を落ちた弾みで、中に入っていたプリントが撒き散らされたらしい。
……だけど、鞄が勝手に階段を落ちるはずはない。
私は階段の下に立って、弱々しい光を二階に向けた。
暗闇をかき分けるほどの力もない微弱な光の中に、もちろん誰の姿も見えはしない。
それでも――いるはずなのだ。
誰かが、この家に。
それは、お母さんかもしれない。
いや、お母さんであってほしい。
辺りを見回し、閉ざされたドアを一つ一つ確かめていく。
脱衣所と風呂場。ここには誰もいない。
トイレ。ここにも誰もいない。ただ壁に「二」という字が浮かび上がっている。
あと一階で見ていないのは、洗面所だけだ。
ドアノブに手をかけ、回してみた。
……ここだけが、まだ開かない。
私は後退り、納戸を見に戻った。今できることは、それぐらいしかなかった。
納戸の壁には、もう一度「七」の数字が浮かんでいた。
ノートのメモを思い出す。
――ケトル、トイレ、和室、納戸、私の部屋。
最後の「私の」は「お母さんの」という意味だろう。それぞれの場所で見つけた数字を、順番に当てはめていく。
――四、二、九、七、七。
これが、きっと答えだ。では、この数字の羅列は何か。思い当たるものは一つしかない。
私は二階にあるお母さんの寝室に向かった。棚にあった小箱――。あれは暗証番号式のロックがかかっていた。
寝室に入り、小箱を調べる。暗証番号は、五桁。やはり当たりのようだ。
私はさっそく、見つけた番号を入力してみた。
蓋は呆気なく開いた。
中には、一通の封筒が収まっていた。
中身を取り出す。それは折り畳まれた書類で、開くと、「借用書」の文字が見えた。
しかも、遥かに大きな額の数字とともに。
――ああ、そうか。
ようやく私は理解した。
――だからあの時、夜中に突然引っ越したんだ。
――だからうちには、電気が通っていないんだ。
――だからお母さんは、ずっと笑ってくれないんだ。
頭の中で泡のように溜まっていた疑問が、シュウシュウと弾け消えていく。だが同時に私は、この解答を現実として受け入れることができず、ただ呆然と立ち尽くす。
そんな私を突き動かしたのは――やはり、怪音だった。
ずおぉぉぉん……と、家中が揺れ動くかのような唸りが、階下から轟いた。
私はハッとして階段を駆け下りた。
廊下の真ん中に、ドアがあった。
ずっと開かなかった洗面所のドアだ。それが入り口から弾け飛んだように外れ、階段の手すりに寄りかかっている。
私は階下に降り立つと、ドアを迂回し、ようやく開放された洗面所の中に目を向けた。
……剥き出しの白い腕が見えた。お母さんの腕だ。
ひゅーぅ、ひゅーぅ、とどこかで風が唸っている。
……鬱血し、紫色に染まった顔が見えた。お母さんの顔だ。
ひゅーぅ、ひゅーぅ、と風が唸り続ける。
……ズボンの裾から足首がはみ出て、宙で揺れている。お母さんの足首だ。
ひゅーぅ、ひゅーぅ、と。
ああ違う。風じゃない。
これは私の、制御できなくなっている呼吸の音だ。
見上げる。お母さんが、天井からぶら下がっている。首にはロープが食い込み、目から血の涙を流し、舌は垂れ、ズボンを濡らし……。
そうか、ずっとここにいたんだ。お母さん、私が帰った時から、ずっとこの部屋に。
「……ただいま」
私は思わず声をかけた。
返事はなくて、ただ代わりに。
「一緒に来なさい」
そう言われた――のだと思う。
だから私は、ふらふらと家を出た。
*
お母さんに導かれて辿り着いた先は、家から遠く離れた森の中だった。
夜は更け、凍てつくような黒一色の世界が、私を爪先まで包み込んでいる。冷えた手で握る懐中電灯の光は脆弱で、もはや命のように瞬くことさえ難しい。
それでも私は今、少しも不安を抱いていなかった。
いや、不安だけじゃない。悲しみも怯えも痛みも、何も感じない。
自分の中に、感情がまったく見当たらない。あれ私どうしたんだろう、と少しだけ不思議に思ったけれど、お母さんが一緒だから、きっと大丈夫だ。
何も考えなくても、足が独りでに動く。ザク、ザク、と草を鳴らし、森の道を進んでいく。
やがて、廃寺の朽ちた山門が見えた。
梁からロープの輪が下がっている。その下には、踏み台代わりの椅子がポツンとある。
よかった。お母さんが、ちゃんと用意してくれていた。
そう、ここが私の帰るべき場所だ。これで一緒に行ける。お母さんと、いつまでも、どこまでも、一緒に。
だってそれが、お母さんの望みだから。お母さんのために私がしなければならない、ただ一つのことだから。
靴を脱ぎ、丁寧に揃えて、椅子に上る。
ロープの輪に首を通す。
私は目を閉じて、呼びかけた。
「ただいま」
「おかえり」
お母さんが、やっと応えてくれた。
既刊
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- 発売日 :
- サイズ : B6判
- 定価 : 1,430円(本体1,300円+税)
- ISBN : 9784047379893